【知ってお得⑦】スティーブ・ジョブズが教えてくれる成功のヒント

 

今や一人1台持っているスマートフォン。

そのスマートフォンの代名詞ともなったiPhoneを世に広め、世界を変えたひとりと言っても過言ではないのは、スティーブ・ジョブズです。

iPhoneに限らず、ユニークなエピソードやファッション、プレゼンスタイルなど、あらゆる面で世界にインパクトを与えてきました。

この記事では、Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズについてお伝えします。

 

 

スティーブ・ジョブズってどんな人?

スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)は、アメリカ合衆国の実業家で、Apple社共同創設者の一人。

Apple社CEO。

MacやiPhoneなどの生みの親と知られています。

また、iTunes やiPodの功績からグラミー賞の第54回における特別賞の一つ「トラスティーズ賞」の受賞、アメリカ国家技術賞の受賞もしています。

 

スティーブ・ジョブズ年表

 

1995年  サンフランシスコで生まれる

1971年  スティーブ・ウォズニアックと出会う

1974年  大学中退してアタリに入社し、エンジニアとして働く

1976年  スティーブ・ウォズニアックと「Apple I」、「Apple II」を開発

1984年  Macintoshをリリース

1985年  アメリカ国家技術賞受賞

Appleを退社、新たにNeXTを設立

1986年  ピクサー・アニメーション・スタジオを設立

1996年  NeXTをアップルに売却し、アップルに復帰

2000年  AppleのCEOに就任

2001年  MacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える

2003年  すい臓がんが発覚

2005年  スタンフォード大学の卒業式でスピーチ

2006年  ディズニーがピクサーを買収し、ディズニーの個人筆頭株主になる

2011年  永眠

2012年  第54回グラミー賞で、「トラスティーズ賞」を授与される

 

幼少期~大学時代

スティーブ・ジョブズは1955年2月24日に、シリア人の父アブドゥルファター・ジャンダーリとアメリカ人の母ジョアン・キャロル・シーブルとの間に、アメリカカリフォルニア州サンフランシスコで生まれました。

スティーブ・ジョブズは生後すぐに養子に出され、養父母となったポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻によって育てられました。

6歳になり、モンタ・ロマ小学校に入学。

幼少期からかなり変わっていたようで、

 

①ヘアピンが電気を通すのか確かめるために、ヘアピンをコンセントに差し込んで感電した

 

②小学校の授業中に花火をした

 

③殺虫剤の味が気になって味見した

 

④物が燃える仕組みが気になり、藁を燃やして実験し、納屋を全焼させた

 

など、エピソードに事欠かない少年だったようです。

小学校4年生のときに快活で機転の利く女性教師と出会ったことが勉強を好きになるきっかけになり、4年生の終わり頃に知能検査を受けたスティーブ・ジョブズは並外れた知能を示したため、1年飛び級してクリッテンデン中学に入学しました。

しかし、飛び級して入った学校では周囲の生徒からいじめられることが多かったため、クパチーノ中学校に転校しました。

 

【1971年】

高校生のときにヒューレット・パッカード社の夏季インターンシップに行き、そこで、後にアップルを共同設立することになるスティーブ・ウォズニアックと出会い、テクノロジーの世界にのめり込んでいくことになります。

当時16歳だった二人は、その年のエスクァイア誌10月号に掲載されていた不正に無料で長距離電話をかけることができる「ブルーボックス」と呼ばれる装置についての記事を読み、自分たちでオリジナルのブルーボックスを作り上げてしまいます。

二人はブルーボックスで電話をかけて遊ぶことだけにとどまらず、1台100~150ドルほどで売りさばくことで大きな利益を上げることに成功しました。

しかし、あるとき銃で脅されブルーボックスを奪われたことがきっかけとなり、身の危険を感じた二人は販売をやめることになりました。

スティーブ・ジョブズは後に、「このブルーボックスで商売した経験がなければアップルが誕生することはなかった」と言っているほど、今後に大きな影響を与えた出来事でした。

また、高校生のときにLSDやマリファナなどのドラッグを日常的にやっていたようで、麦畑がバッハの曲を奏でるという幻覚体験をして、その体験を素晴らしいと感じたようです。

その体験もスティーブ・ジョブズの中では影響を受けた一つだったようで、後に「LSDの摂取は、人生で行ったことの中で最も重要な経験のひとつだ。私はドラッグなしでは成功できなかっただろう」と言っていたようです。

その後オレゴン州のリード大学に進学し、ユダヤ・キリスト教・イスラム教・アニミズム・太陽神・思想・坐禅・食事・ヒッピー文化などを学び、かなり影響を受けていたようです。

大学の構内を裸足で歩いたり、お風呂に入らない時期があったりと、心酔する様子に周りも大変だったようです。

大学は通い始めて半年ほどで中退、中退後もしばらくは大学内をうろつき、コーラの空き缶拾いや電子装置修理で日銭を稼ぎながら、哲学やカリグラフィー(西洋書道)などの、自分が興味のあるクラスだけを聴講し、合計18ヶ月をリード大学で過ごしました。

その後、アメリカのビデオゲーム会社のアタリ社で働き始めましたが、働き始めてからもこの行動は続き、ジョブズは不潔という理由で夜勤にさせられていたこともあったようです。

 

Apple社創設に至るまで

【1975年】

当時はAltair 8800というコンピューター・キットが発売され、かなり人気になっていました。

高校生のときスティーブ・ジョブズと一緒にブルーボックスを販売していたスティーブ・ウォズニアックは、もっと安くもっといいコンピューターを作ろう!として、マイクロコンピュータ「Apple Ⅰ」を自作することに成功しました。

これをヒューレット・パッカード社やアタリ社に商品化を持ち掛けたのですが、両社ともに断られてしまいます。

 

【1976年】

そこで、「Apple Ⅰ」に商業的な価値を見出していたスティーブ・ジョブズは、スティーブ・ウォズニアックと二人で自宅ガレージに「アップル・コンピュータ・カンパニー(Apple Computer Company)」を設立、ついに「Apple 1」を666.66ドルで販売を開始します。

これが今や誰もが知る「Apple」の始まりでした。

 

【1976年~1977年】

そして、スティーブ・ジョブズはインテルの中級社員だったマイク・マークラに企業の話を持ちかけました。

マイク・マークラはAppleに加わり、彼の個人資産である9万2000ドルを投資して、1977年1月3日、スティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニアック、マイク・マークラの三人でAppleを法人化しました。

1977年5月には、マークラが他社より呼び寄せたマイク・スコットが社長に就任しました。

スティーブ・ジョブズは創設者の一人ではありますが、当時の肩書きは、事業統括担当副社長だったそうです。

「Apple Ⅰ」を販売後、スティーブ・ウォズニアックは、さらに良いコンピューター開発のため再設計を開始します。

処理能力の向上、ディスプレー表示のカラー化、拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダーを持つ「AppleⅡ」をほとんど独力で開発しました。

 

【1977年】

「AppleⅡ」は販売をスタート、爆発的な人気となりました。

1台1,298ドルで販売されたこの商品は、1984年までに200万台を売り上げ、莫大な利益をAppleにもたらしました。

 

【1980年】

Appleは株式公開を果たし、750万株を持っていたスティーブ・ジョブズは2億ドル(当時レートで約440億円)を越える資産を手にしました。

設立からたった数年で、スティーブ・ジョブズはビリオネアとなったのです。

 

Apple退社~Appleへの復帰まで

【1980年~】

Appleは、さらに上の次世代コンピューターとして「Lisa」プロジェクトを発足。

もちもんスティーブ・ジョブズもこのプロジェクトに参加しており、1979年にパロアルト研究所見学で、「GUI(グラフィカルユーザインターフェース)」(デスクトップ、メニュー、アイコンなど、現在当たり前に使っているパソコンの機能のこと)を目にしたことから、この機能の導入を考え始めます。

同時期に、「AppleⅡ」よりももっと誰でも簡単に扱えるパソコンを目指そうとApple社内で「Macintosh」プロジェクトも立ち上がり、新商品開発に向けて活発になっていきます。

一方で、スティーブ・ジョブズの社内での独断専行の立ち振る舞いが目立ち社長のスコットによって「Lisa」プロジェクトから外されてしまいます。

行き場を失ったスティーブ・ジョブズは同時期に進めていた「Macintosh」プロジェクトに参加します。

しかし、「Lisa」プロジェクトに激しい敵意をむき出しにしていたスティーブ・ジョブズは、「Lisa」よりも性能を良くしようと独断で動き、ここでも激しく意見が対立、プロジェクト担当はAppleを去ります。

 

【1981年】

スティーブ・ジョブズと激しく対立していた社長のマイク・スコットも、法人化のときに引き入れたマイク・マークラによって解任。

 

【1983年】

スティーブ・ジョブズはマイク・マークラから、マイク・スコットの代わりを見つけてくるよう頼まれ、当時、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに

「このまま一生砂糖水を売りつづけたいか? それとも世界を変えたいか?」

と言って引き抜きに成功、ジョン・スカリーが社長に就任しました。

 

【1984年】

その後もスティーブ・ジョブズのストイックさと独断専行は続き、「Macintosh」プロジェクト開始から5年後にようやく「Macintosh 512K」を発売、オフィスへの大量導入へと繋がっていきます。

しかし、スティーブ・ジョブズはMacintoshの需要予測を大幅に誤ってしまい、設立後初めての赤字を計上してしまいます。

このせいで、Appleは従業員の5分の1にあたる従業員のレイオフ(一時解雇)を余儀なくされました。

この事態をみたジョン・スカリーは、スティーブ・ジョブズがAppleの経営を混乱させていると考えるようになり、Macintosh部門からジョブズを解任するよう取締役会に要求します。

それを知ったスティーブ・ジョブズは、ジョン・スカリーが中国出張に行っている間にジョン・スカリーをAppleから追放することを画策します。

 

【1985年】

しかし、その画策がバレてしまい、取締役会でスティーブ・ジョブズはAppleでのすべての仕事を剥奪されてしまいます。

実質追放されてしまい、Appleで何もできなくなったスティーブ・ジョブズは、持っていたAppleの約650万株をすべて売却、大量の資金を投入し、新会社「NeXT」を設立します

 

【1986年】

ルーカスフィルムのコンピューター関連部門を1000万ドルで買収し、「ピクサー(PIXAR)」と名づけます。

 

【1990年】

スタンフォード大学で講演を行った際に、聴衆の一人だったローレン・パウエルと出会います。翌年2人はヨセミテ国立公園で結婚式を挙げ、9月には長男のポールが生まれました

 

【1995年】

ピクサーと名付けてから莫大な投資と年月をかけてついに公開となった「トイ・ストーリー」は世界的大ヒットとなり、ジョブズは多額の資産を手に入れることになります。

しかし、新会社「NeXT」は経営難が続き、設立後8年ほどで授業インの約半分をレイオフ(一時解雇)し、ハードウェア部門をキャノンに売却、NeXTはソフトウェア会社へと転じることになります。

 

【1996年】

この頃、Appleは自社内のOS開発が暗礁に乗り上げていました。

そのため次世代Mac OSを必要としていて、各社から候補を募っていました。

そこにスティーブ・ジョブズが自ら売り込みプレゼンテーションを行い、みごと新OSの権利を手にします。

AppleがNeXTを4億ドルで買収することに合意し、次期OSの基盤技術としてNEXTSTEPを採用すると発表しました。

ここでようやく、スティーブ・ジョブズは、Appleの非常勤顧問という形で復帰をはたしました。

ここからスティーブ・ジョブズの改革が始まります。

 

受賞歴

1985年 アメリカ国家技術賞 受賞

2002年 PGA ヴァンガード賞 受賞

2012年 グラミー賞特別功労賞理事会賞 受賞

 

ポイント!・Apple創設者の一人。

・幼少期からかなりやんちゃで変わり者だった。

・設立からたった数年でビリオネアとなった。

・設立から解雇となるも、再びAppleに復帰した。

・数々の受賞歴がある。

 

スティーブ・ジョブズって何をした人?

 

Appleの設立・功績

1976年にスティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニアックの二人で設立、1977年にはマイク・マークラの協力のもと法人化をすることになりました。

設立後、新製品で爆発的な人気を誇りましたが、スティーブ・ジョブズが退社後、復帰するまでの約11年間は人気も低迷し、業績も悪化していました。

スティーブ・ジョブズの復帰とともに次々と製品の見直しとリストラを実施、起死回生の改革として「カテゴリーブランドの確立」を行いました。

1988年に発売された「iMac」を皮切りに、次々と大ヒットを記録する製品を生み出します。

2000年にはそれまで拒否していたCEO就任を正式に受諾しました。

そしてついに「iPhone」が登場します。

これにより、デザイン性やアプリの充実など、Appleの製品へのイメージが大きく変わり、再び「スティーブ・ジョブズ」「Apple」の爆発的な復活を人々に強く印象付けました。

スティーブ・ジョブズがCEOを退任する2011年までに、携帯電話事業はAppleの総売上高の5割を占めるまでに成長しました。

 

Appleの製品

Appleは数多くの製品を世に送り出してきました。

今では当たり前になっているカラー画面やタッチパネルも先人達の努力があったからこそですね。

Appleが設立してから開発された、数ある製品の一部をご紹介いたします。

 

1976年 AppleⅠ

世界初のパーソナルコンピューターの一つ。

 

1977年 AppleⅡ

一般の愛好家でも使用可能なものとして製造された最初のオールインワンコンピューター。

 

1980年 AppleⅢ

ビジネス向けパーソナルコンピューター。

3億ドルもの損失を生み出してしまったもの。

 

1983年 Lisa

初のGUI環境を搭載した機器だったが、高値過ぎて売れず。

    アップル・マウス

Lisaで初めて導入されたマウス。

 

1984年 Apple ⅡC

Appleの伝説的なデザイン規則「Snow White design language」が初めて適用されたモデル。

    Macintosh(128k)

初代Macintosh。

 

1986年  Macintosh Plus

初めて日本語が使えるようになったMac。

 

1989年 Macintosh portable

バッテリ駆動する初めてのポータブルPC。

1991年にスペースシャトルのミッション・STS-43において、宇宙からメールを送信したときに使用されたマシン。

 

1991年 Macintosh PowerBook 140

現在のノート型PCの先駆けとなったマシン。

 

1993年 Apple Newton

世界初のPDA(携帯情報端末)と言われているマシン。

 

1995年 PowerBook 5300

CPUにPowerPCを搭載した初のPowerBook。

 

1998年 iMac G3

スティーブ・ジョブズが復帰して最初のPC。

半透明な樹脂を使ったデザインで大きなインパクトを与えた。

このデザインは日本でもグッドデザイン賞を受賞した。

 

2001年 iPod

初代iPod。

 

2004年 iPod mini

iPodに比べて大幅に軽量化されたことで世界的に爆発的なヒットとなった製品。

 

2005年 iPod nano

iPodの小型デジタル音楽プレイヤーの第2弾。

この登場により「iPod mini」の生産は終了。

    iPod shuffle

情報表示画面がなく、とてもコンパクトになったiPod。

 

2007年 iPhone

Apple社製の初代スマートフォン。

 

2008年 MacBook Air

史上最も軽量で薄型なMacintosh。

 

2010年 iPad

Apple社製のタブレット型PC。

 

2015年 Apple Watch

初代Apple Watch。

 

ピクサー・アニメーション・スタジオを設立

実は、スティーブ・ジョブズが一からピクサーを設立したわけではありません。

スターウォーズでおなじみのジョージルーカスが設立したルーカスフィルムという会社が、ジョージルーカスの離婚により発生した莫大な慰謝料が原因で事業を縮小せざるを得ない状況になります。

そうして売却されることになったのがコンピューター部門だったピクサーだったので、そこに目を付けたスティーブ・ジョブズが1986年に買収し、CEOの座に就いたのが始まりです。

当初、スティーブ・ジョブズはアニメーションスタジオをつくることではなく、自身を追い出したAppleに対抗するための、次世代の家庭向けコンピューターをつくることにあったようです。

こうして、ピクサー・イメージ・コンピュータを販売する事業として新たなスタートを切ったのですが、思うように売れず赤字が続きました。

ここでピクサーは大きく舵を切ることを決断、コンピューターからCGアニメーションで勝負することに決めました。

ジョン・ラセターの作った短編アニメやCMなどでクリエイティブな賞をとることにより、少しずつ実績を作り、ついにディズニーからオファーがかかりました。

そうして4年の歳月と、70台のSGIワークステーション、117台のSUNワークステーションを使って作られたのが1995年に公開された「トイ・ストーリー」です。

ここで、ここまでピクサーにはあまり関与していなかったスティーブ・ジョブズが動き出します。

ディズニーとより有利な条件で契約するために、トイ・ストーリー公開の一週間前に株式を公開したのです。

ピクサー初の映画が興行収入記録を打ち立てて大きな資金を手に入れられただけでなく、ディズニー側から契約の見直しと提携関係を結びたいと申し出があり、2006年にディズニーがピクサーを買収、完全子会社となりました。

また、スティーブ・ジョブズ自身も、ディズニーの個人筆頭株主になると同時に、ディズニーの役員に就任しました。

 

ポイント!・Appleに復帰後、改革とともに再び大ヒット製品を生み出した。

・ピクサー・アニメーション・スタジオを設立した。

・ディズニーの個人筆頭株主、役員に就任した。

 

スティーブ・ジョブズの人物像とは

スティーブ・ジョブズといえば、製品への一切妥協を許さないストイックさやプレゼンテーションでのスマートさなど、価値観や生き様などあらゆる面で世界にインパクトを与え、リスペクトされている人物の一人です。

しかしその華やかさの裏にはかなり激しい性格を持っていたということも有名な話です。

ジョブズの性格の悪さが現れているエピソードは、アメリカの技術ニュースの専門ウェブサイトBUSINESS INSIDERに「スティーブ・ジョブズが最低な人間だったことを示す16例」という記事や、The Hustleの「スティーブ・ジョブズはクソ野郎だった、彼の行った最大の侮辱集」など、メディアでまとめられるほどだったそうです。

以下、スティーブ・ジョブズのクレイジーなエピソードをいくつかご紹介いたします。

 

信じられないエピソード

 

①社員をクビにしまくる

・予告なし、慰謝料なしでクビを切っていた。

・会議中「じゃあなんでこのくそったれはそれができないんだ?(”Then why the f*ck doesn’t it do that?”)」といって責任者をクビにした。

 

②暴言が激しい

・Appleのサプライヤーの一つが納期に間に合わなかったときに相手の会議室に乗り込み、大声で「f*cking d*ckless assholes(ファッキンでタマなしのケツの穴達め)!」と叫んだ。

・ロンドンの5つ星ホテルが気に入らず「私はこの部屋が気に入らないな、まるで糞まみれだ。さあ行こう(”I hate my room. It’s a piece of sh*t, let’s go.”)」と言ったという。

・自身の健康について書いた記者に、書かれたことに対して噛み付き罵った。

・面接時にセクハラな質問をしていた。

 

③ボーナスの独り占め

・アタリ社で働いていた時のボーナスを、共同開発したスティーブ・ウォズニアックに正確な金額を伝えずほとんどを自分の懐に入れてしまった。

 

④iPod試作品を水槽の中にぶち込む

・iPodの小型化を目指していたため、試作品をいきなり水槽に入れ、水槽の中の試作機から出ている空気を指さし、「この酸素の分もっと薄くしろ」と言い放った。

 

⑤長年、子どもを認知しなかった

・娘であるリサを自分の娘と認知せず、養育費を一切払わなかったため、母親とリサは長年政府の補助金で生活していた。最終的には養育費を支払うことを決め、カリフォルニア州政府に罰金を支払った。

 

名言集

スティーブ・ジョブズの性格はかなりクレイジーではありますが、ストイックで一切の妥協を許さないからこそ生まれた数々の名言もあります。

数ある名言の中でいくつかご紹介いたします。

 

①ハングリーであれ。愚か者であれ。(Stay hungry. Stay foolish.)

 

スティーブ・ジョブズの座右の銘とも言われるワンフレーズです。

1971年に発行された「ホール・アース・カタログ」最終号に添えられたフレーズです。

スティーブ・ジョブズはこのフレーズを座右の銘としてスタンフォード大学で行ったスピーチの締めの言葉として引用しています。

 

②シンプルであることは、複雑であることよりもむずかしいときがある。物事をシンプルにするためには、懸命に努力して思考を明瞭にしなければならないからだ。だが、それだけの価値はある。なぜなら、ひとたびそこに到達できれば、山をも動かせるからだ。(Simple can be harder than complex. You have to work hard to get your thinking clean to make it simple. But it’s worth it in the end because once you get there, you can move mountains.)

 

徹底的に無駄を排除して物事をシンプルにすることで、真の意味や価値が見えてくるというスティーブ・ジョブズの哲学が感じられる一言です。

 

③重要なことに集中する唯一の方法は「ノー」と言うことだ。(It’s only by saying no that you can concentrate on the things that are really important.)

 

2004年のBusinessWeekでのコメントです。

限りがある時間の中で、スティーブ・ジョブズのストイックに本質と向上を追い求める姿が垣間見える一言です。

 

病気との闘い

スティーブ・ジョブズは56歳という若さでこの世を去っています。

死の大きな原因とされているのが2003年に発覚したすい臓がんだと言われてします。

進行が緩やかなため、早期に発見・手術すれば回復する症例が多い種類のがんでしたが、東洋文化を重んじていたスティーブ・ジョブズは現代医療を拒み、手術を拒否し続けました。

その結果9か月後の検査でがんが大きくなっていることが発覚し、ついに手術を受けました。

この件に関しては後に、スティーブ・ジョブズ本人も「もっと早くに手術を受けるべきだった」と後悔していたようです。

その後仕事に復帰していましたが、2008年「iPhone3G」発表のプレゼンではひどく痩せた姿を見せていました。

この時がんは肝臓へ転移していたため、CEOの休職を発表し、2009年に肝臓の移植手術を受けました。

2010年、一旦回復をみせ、家族で旅行に行けるほどになりましたが、11月にがんが再発しました。

しかもこの時すでに、がんは骨など全体に転移しており手の施しようがなかったそうです。

2011年には自力で歩くことも困難になりCEOを辞任、後任にティム・クックを推挙し、クックが後継者としてCEOに就任しました。

2011年10月5日、スティーブ・ジョブズはカリフォルニア州の自宅で、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により親族に看取られながら死去しました。

スティーブ・ジョブズの死は世界中に衝撃を与え、業界関係者からその死を惜しむ声が相次ぎました。

建築CADソフトウェアを手がけるグラフィソフトでは、2011年12月21日、ハンガリーの彫刻家であるErno Tothによって彫られたジョブズの銅像をブダペストのグラフィソフトパークに建立しました。

スティーブ・ジョブズの銅像が建てられたのは世界初のことでした。

 

ポイント!・暴言などかなり激しくクレイジーな性格をしていた。

・一切の妥協を許さないからこその数々の名言が生まれた。

・がんのため、56歳という若さで亡くなった。

・死を惜しむ声が多く、銅像が建てられた。

 

スティーブ・ジョブズから学ぶこと

とても波乱な人生を歩んだスティーブ・ジョブズですが、価値観や生き様などは世界中に大きな影響を与え、彼の功績は世界を変えたといっても過言ではないです。

そんな彼から学ぶべきことを3点に絞ってご紹介いたします。

 

①一切の妥協をしないこと

Appleの製品には妥協がありません。

製品のデザインや機能だけでなく、パッケージのデザインや梱包に至るまで、一切の手抜きがありません。

コストや納期など仕事をする上で様々な問題が浮上したときに、つい妥協点を探してしまい「こんなものかな」となりがちです。

しかし、妥協点を探すのではなくどうすれば乗り越えられるのかを考え抜いたからこそ、あのような素晴らしい製品の開発に成功したのだと思います。

 

②無駄なことを徹底して削ぎ落とす

スティーブ・ジョブズの仕事の考え方として無駄なものは徹底して削ぎ落すというものがあります。

例えば、長年ほぼ同じ服装で過ごしていたことなどがあげられます。

人は1日に数万回の決断を無意識に行っていると言われています。

本当に大事なときに決断ができるよう、自分にとって無駄だと思える決断を徹底して削ぎ落し、集中すべきことに時間を割くことができるようにしていたのかもしれません。

 

③マーケティングコミュニケーション

スティーブ・ジョブズのプレゼンテーションは世界トップクラスです。

プレゼン力の源泉は、圧倒的な製品への自信と情熱です。

そしてシンプルさへの拘りはここでも発揮されます。

スティーブ・ジョブズのスライドは「1ビジュアル」「1メッセージ」が基本とされ、細かな文字や長々とした言葉での説明はしません。

言葉選び、間の取り方、小道具の使い方、服装、演出など細部まで徹底的にこだわり抜きます。